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麒麟がくるに関わった製作者としての想い

歌手として、丸2年の歳月、
この大河ドラマ『麒麟がくる 』に関わりました。
 
作品が1年を通して放映されるというような
長い作品に関わって歌うことは今まではなかったので、
準備もだいぶ時間をかけました。
 
台本を読んだり、光秀のお墓にいったり、本編も何度か見みて、
この作品の真ん中にある「平和への想い」
そこに込められた世界観を頭にいれ、
メロディを身体にいれ、

ストーリーや登場人物の心情の移り変わりを心に入れ、挑みました。

 
2020年から、コロナで色んな事がおこり、
わたしの日常も、周りの人の状況や心情も変わりました。
 
麒麟がくるを見ていて、
今ある状況が、ある意味、
光秀や信長の心情に似ているところもあったし、
心折れそうな時に、
この作品の主題である「平和・平安」というキーワードが私の心を支えてくれました。
 
 
最初は歌を歌うために、
この『麒麟がくる 』の作品を深く読み込む機会を得たわけですが、
作品として、いろんな角度で噛み砕き解釈ができ、人生の気づきを頂きました。
 
その中でも、一番心に残ったのは「本能寺の変」。
シーンを振り返りながら、
思ったことを今日は徒然に、想いのまま、
書いてみたいと思います。
 
 
・・・
 
頂点に立った信長は、
目指す行先を見失い、
どんどんと傍若無人になっていきます。
 
そんな信長を恐れ、誰もが本音をいわなくなり、
ますます信長は孤立。
 
荒れ放題の信長の行動に
このままでは、「穏やかな世にはならない」と
全てを終わらせようと光秀は、
その一手を担い、本能寺に信長を討ちに本能寺に向かいます。
 
光秀と信長が、2人で目指した大きな国を作り、平和な世の中を作るという夢は、
「本能寺の変」で途絶えてしまいますが、
 
信長は自分を討ちにきた相手が、光秀だと知ったとき、
涙を浮かべながらも、少し嬉しそうし、
「そうか、そなたが…十兵衛か」と言い残します。
 
 
その信長の表情を見た時、こう思いました。
 
信長は、自分の傍若無人を止めてくれる人を、
待っていたのかもしれないと。。。
 
頂点に立ってしまった自分であっても、
本音でいつでも自分に向かってきてくれる人を、待っていた。
 
共に、尊敬し歩んできた朋友である明智十兵衛光秀だけは、
信念を持って、自分に物おおじせずに向かってきてくれたのだと。。。
 
 
 
そう思うと、
この「本能寺の変」は、
戦国時代における、2人の絆の証であり、
平和な世に現れるという
「麒麟」を連れてきたのは、光秀であり、信長なのかもしれません。
 
2人の夢は途絶えても、
想いは途切れることなく、徳川家康に受け継がれ。。。
 
 
 
この作品は、歴史をベースに、
登場する人々の心の機微を描いた群像劇の超大作でした。
私にとっては、これまで観てきた色々な作品の中で、
人生の最高の教科書となりました。
 
傍若無人になっていった信長には、
大きなトラウマがありました。
 
幼き時より、弟と比べられて母に嫌われ、
父にも褒めてもらえず、
自分は愛されていないと、
悲しみや怒りの感情を、心に蓋をして生きてきました。
 
信長がよく使う台詞に、
「いくさに勝つと、皆が褒めてくれる」という言葉。
愛情不足だった信長は、
人が褒めてくれるそこに糧を見出し、いくさで勝つことに集中していった。
 
褒められれば、誰でも嬉しいもの。
信長は、自分のアイデンティティをそこに見出してしまったんだと思います。
 
しかし、どんなに勝って、頂点に立っていったとしても、
子供の時の、癒えることない心の寂しさは消えません。
 
いくさに勝ち、みなが一目置いて、
状況がどんどん自分の思い通りになることで、
逆に、自分ではどうやっても癒すことのできない過去=小さい時に拭えなかった想いが、
心から吹き出してしまう。
 
それを自分で、どう癒すことができるのかわからない信長は、
突然泣き出したり、愛情を確かめるために人を試したりするようになって、
大切だった妻の帰蝶も一緒に住んでくれなくなり、
信頼を持っていた光秀にも、
自分を信じてくれているのか試すような行動が増え、
手がつけられなくなっていきます。
 
 
 
たまりかねた光秀は、信長に直談判し、
 
「殿はいくさに勝つたび、変わられた、変わっていかれた」
 
「昔は船に乗り、魚を釣っては民のために分けあたえ、
身分に限らず、良き働きをするものには、地位もチャンスも与えた」
 
涙ながらに訴えるが、
 
信長は、光秀に伝えます。
 
「(光秀が大切に慕っていた)将軍を討てば、国はひとつになる。
 
あとは、
海にでもいって釣りをして
ゆっくり眠れる日々を送らないか」と・・・
 
信長のその言葉が、今も心の中でリフレインしています。
 
信長は、幼少時代に愛情を感じられなかった分、
無条件の愛情を欲していた。
 
どんなにいくさに勝って認められたとしても、
心埋まらなかった溝は、
無条件の愛情だったのではないかと思います。
 
子供のように極端ですが、
隠し事をせず、誰よりも自分に誠心で、本気で、本音でぶつかってきてほしかったのだと。
 
でも、本当は、人は、それを、心の底で欲しているのではないかと・・・。
 
建前ではなく、本音の会話を。
 
そう思うのです。
 

​​​​​​​

しかし、壊れてしまう前に、
言葉がなくても、もっと相手のことを想像してあげられたのなら、
いろんなことが変わっていったのかもしれません。
 
信長は、頂点に達したけれど、
子供の頃に心に蓋をした 強い悲しみや怒りの感情が残ったままでした。
 
他が叶ったからこそ、まだ叶っていない、
子供時代に愛情を感じられなかった淋しさが噴出し、
近くにいる優しい人たちや、理解者に対して、
どれだけ自分を愛してくれているか、
自分のわがままを聞いてくれるかを試してしまう「子供返り」という試し行動をしてしてしまうんだと思います。
 
自分でも気がつかないうちに、その行動がエスカレートし、
仲が良かった人とも仲違いするようになってしまうことがあります。
 
 
 
しかし、そのようなことが起こった時に、
心の知識として、する方も、される方も、
そのような「試し行動」ということを理解をしていれば、
話し合いができ、別れを回避できるかもしれません。
 
試し行動をしてしまう方は、近くにいる優しい人たちに甘え、
昔の悲しみを晴らすように、違う人に吐き出してしまわぬようにすることが大事。
そうでないと、罪もない人を傷つけてしまうことがあります。
 
また、その行動を受けてしまう方も、
単に相手が、目の前の自分に怒っていたり、だだをこねたりしているのではなく、
過去の悲しみを癒したいがために行っていることかもしれないということを知っていることで
受け止め方が違うと思うんです。
 
本当は、その相手は、
暴走しても「本気や本音」で止めて欲しいと願っているのだと。
そこまでを感じて理解できる
そんな人間になりたいと思いました。
 
そうでなければ、
その暴走を作った、周りや本人どちらかが別れを切り出さなくてはならなくなってしまうからです。
それは本当に悲しいことです。
 
この作品を通して、
生きるとは相手を理解しようと努め、
自分のことも省みながら、軌道修正しながら、
本音で、皆が笑顔になることを1つでも多くすることだと改めて思いました。
 
 
最後に、番組を通して、
歌を応援し、聞いてくださったファンの皆様、
そして、脚本家の池端俊策先生をはじめ、大原監督、
俳優の皆様、スタッフの皆様、本当に素晴らしい作品をありがとうございました。
 
大河ドラマに関わる中で、最後に歌わせて頂いた「悠久の灯 」。
この作品は、最終回を迎えましたが、
いつまでも続く気持ち、エコーのように消えない、「心の平穏=平和への想い」を紡ぐべく
これからも表現し、歌っていきたいと思っています。
 
堀澤麻衣子
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